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多摩湖町の歴史

下宅部遺跡(しもやけべいせき)

 平成8~13年まで、多摩湖町4丁目の都営住宅建て替えに際し、発掘された遺跡で、3500年前の縄文時代から中世までの2300年間、人々の暮らしの跡を残した貴重な遺跡です。石器や土器はもちろん、弓・やじり、猪・鹿・魚類の骨、栃や胡桃の殻などが大量に出土しました。また、製作中の丸木舟なども発見され、さらに赤い漆塗りの飾り弓などは、この技術がすでに用いられていたことを示すもので、東京都の有形文化財に指定されました。そして水路を造り、栃や胡桃のあく抜きをした設備、今と変わらない籠(かご)や笊(ざる)の編み方までも残しています。
 古墳時代になると、この付近に有力な豪族がいたことを示すものも、発見されています。池状遺跡からは小刀や櫛(くし)、土師器(はじき)・須恵器(すえき)という高温の窯で焼いた土器、それに書かれた文字などがありました。中世(鎌倉·室町時代)の遺物としては、板碑や、河原の石を敷き詰めた場所(祭記遺跡?)もありました。
 この遺跡は、一部を発掘しないで残してあります。調査を後年に委ねるとして遺跡公園としました(はっけんのもり)。先年、後楽園・六義園などと共に日本の歴史公園百選の一つに指定されました。

宅部(やけべ)の由来

 下宅部遺跡の「宅部」は、東村山市で最も古い地名です。大化の改新(645年)で、土地・人民は公のものと決められました。公地公民の制度です。しかし豪族のなかには、国に土地・人民を納めないものもあり、その土地・人民を家部(宅部)と言ったのです。この地を支配していたのはだれか。確かなものは何一つもありませんが、私は「 物部氏」ではなかったかと思っています。物部氏は大和朝 廷において軍事を司り、東国に勢力を持っていました。所沢市の北野天神社はもと物部天神と言ったと、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』にあります。この物部天神社の名は、平安時代の「延喜式内社」に見える古社で、物部氏が狭山丘陵周辺を支 配していたと思われます。また宅部は狭山丘陵の谷間で、早くから稲作が行われていたと思います。堤防の付近が東大和市と東村山市の境ですが、湖の部分を上宅部、多摩湖町分を下宅部と言いました。そして流れる川を宅部川(この川は、上流から石川・宅部川・後川そして全体を北川)下流で前川と合流します。

瓦塔(がとう)のこと

 西武園住宅の道路脇に「瓦塔出土地」の標識が立っています。ここはもと松林で、昭和9年に土地の所有者が、開墾中発見したもので、当時の東京帝室博物館の技官が継ぎ合わせ、2メートル近い5層の塔が出来上がりました。現在も上野の国立博物館に展示されています。東村山出土の瓦塔は上野の博物館に、静岡県三ケ日出土の瓦塔は奈良国立博物館にと、東西の貴重な瓦塔は学会に知られています。ふるさと歴史館を建てるとき、この瓦塔を調査し、武蔵国分寺ができた8世紀ごろに、埼玉県鳩山村あたりの窯で焼いたものとわかりました。この瓦塔の一 つが下宅部遺跡から発見されました。レプリカが歴史館に、常時展示されています。

村山党と村山

 村山党は平氏の一族と言われています。秩父氏・江戸氏・豊島氏・千葉氏などとともに、関東に勢力を広げました。そして村山一族は狭山丘陵一帯に居を構え、村山氏・山口氏・金子氏・久米氏などとなりました。東村山市の「村山」 はこの村山なのです。村山氏の本拠は武蔵村山市の福正寺辺りといわれています。鎌倉幕府の『東鑑(あずまかがみ)』には、金子氏・山口氏などの活躍がたびたび記されています。

鎌倉古道

 鎌倉道は鎌倉に向かっての道です。鎌倉道には上ツ道・中ツ道・下ツ道の大きな道と、それに通じる小さな道が多くあります。東村山を通るのは上ツ道(前橋から碓氷峠に通じる)で、氷川神社の社務所の裏を通る坂道は、所沢の山口城から九道の辻に出る鎌倉道の脇道と言われています。今の氷川神社は、公園の中にポツンと建っているように見えますが、元々この道に面していたのです。

新田義貞の鎌倉攻め

 元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉幕府を攻めた時、宅部にあった日向山光明院瑠璃光寺は戦火にかかり、堂塔伽藍(どうとうがらん)ことごとく焼失したと 『狭山之栞 』(さやまのしおり)にあります。日向(ひなた)は宅部川の南側の地名です。(ちなみに宅部川の北側の地名は境)。いま「石薬師」がある付近かも知れません。この後も、東村山はたびたびの戦火に見舞われました。その度に、多摩湖町も戦場となったと思われます。

江戸時代の廻田村

 宅部と廻田が合体して「廻田日向村」となり、のち廻田村となりました。そして宅部と廻田の上が、関東郡代伊奈氏の家臣富田氏の領地となり、廻田の下が旗本中川氏の領地となりました。富田氏はのち秩父に移され、宅部も幕府領となりました。なお小平市の廻田町は、廻田村の新田として開拓された所で、宅部の産土神(うぶすながみ)の御分霊を遷し、氷川神社を創建しました。

宅部の産土神氷川神社

 氷川神社の創建年代は、記録がなく不明です。ただ大宮駅の氷川神社は「延喜式内社」の大社で、所沢の中氷川神社も「延喜式内社」です。時代はわかりませんが、伝承されるように、中氷川神社の御分霊(素戔嗚尊<すさのおのみこと>、須佐之男命とも書く)をいただいて、江戸時代以前に創建されたものと思われます。史料としては宝暦9年(1759年)の『神社書上書』に「氷川明神」があり、弘化3 年(1846年)氷川明神祭礼に「二十五座神楽奉納」と『小町家文書』にあります。

三筋の蝙蝠(こうもり)

 宅部川・前川・空堀川の三本の川と三つの差場(さしば)を意味する三匹の蝙蝠と言われます。差場は住民の共同体で、宅部・廻田の上・廻田の下を表わしたものと言われます。多摩湖町の氷川神社も廻田町の金山神社も、この「三筋の蝙蝠」を祭りの手拭いに染めています。

都民の水瓶「多摩湖」

 一千万都市・東京の水を支える多摩湖は、村を湖底に沈めた人造湖です。大正5年に着工、大正13年に上の貯水池が、昭和2年に下の貯水池が完成しました。狭山湖からの水は、サイフォン方式で、西武住宅の上から桜並木の下を通して廻田に上げ、浄水場にまわっています。関東大震災にも、空襲にも耐えた堤防、その堤防の補強工事が完成し、大地震にも耐えられる由。堤防下の氷川神社もお参りが多くなってきました。

東村山郷土研究会 元会長 日笠山 正治