多摩湖町福祉協力員会が発行する『ふれあいたまこ』より抜粋。
◎ 太平洋戦争と村山貯水池
深い緑に囲まれ静かに水をたたえる村山(上・下)貯水池も太平洋戦争による被爆は例外ではなかった。都民の水がめ、貯水池を守ろうとする関係者はその方策に苦心をしたという。
Ⅰ 村山(上・下)貯水池の防空対策
Ⅱ 貯水池 (上・下)貯水池の空襲
第62号 令和6年9月
大熊 鎮成
(1) 大運搬
トロッコで土を運ぶのを大運搬といってトロッコ1 台に一人つい
て10台繋がっていく。今の狭山スキー場の南当たりからと北側の
山の当たりから土を切り出し運んだ。トロッコ1台で土一合を運ぶ。土の量り方は一坪、その10分の1 が一合となる。土取りの山が近ければ仕事は楽であるが、遠くの山から運ぶのでは日に何回も運べない。常傭の作業員は一日当たりの賃金計算であるが、一台当たりの計算を「コマワリ」といった。「コマワリ」は能率給だから熱心に働くので工事のピッチはあがった。
(2)馬ドロ
発掘の時、水の抜けきれない下貯水池の水際に近く、宅部川の南
に杭のようなものが続いていた。これは軽便電車が走っていた道で
あった。大正9年(1920)6月に機関車が走るまで「馬ドロ」と
いって馬がトロッコを挽いていた。馬方が追分を歌いながらトロッ
コ1~2台つけた馬を挽いていた。
(3)むしろしき
むしろしきは堰堤を築き上げる時、トロッコで運んだ土をローラーで均(なら)すのに土の上に莚を敷く仕事である。これには小学生も出て今でいうアルバイトである。当時6 年生の修学旅行が江の島・鎌倉だったのでその費用を稼ぎ出した児童もいた。一日30~40 銭の賃金だった。莚は畳1 畳でローラーが通るとすぐに剥がして竹の棒に掛け、二人で担いで移動して次の所に敷くことだった。
(4)当時の労賃
大正4 年(1915)の半ば頃から貯水池用地内の民家の移転が始まり当時の一般的な日雇い労賃は13銭位だった。大正4年(1915)~同7年(1918)頃までの堰堤工事の掘削工事などの一般土木工事は50銭位だったが、同6年頃は約60銭、同7年頃は約70~と80銭と徐々に上がり工事内容により差はみられた。
上堰堤(東大和市から西武球場に抜ける堰堤。現在拡張工事中)では第一次起工案が大正6年10月1日~同10年2月9日で延べ163,000 人、その総額賃金186,095 円で加入平均日当1円40銭であった。当時の新聞記事には度々労賃が低いので作業員が集まらないことや賃上げ要求のことが報じられている。一般の勤め人より低かったことは事実のようだ。
(★大正2年の一円の価値は地方公務員の初任給で換算して現在の4,000円相当である)
第61号 令和6年3月
大熊 鎮成
◎材料運搬路建設工事
Ⅰ 村山上貯水池上堰堤(東大和市から西武球場に通じる堰堤)までの状況
Ⅱ 上堰堤築造に使用する諸材料
Ⅲ 資材運搬に関する申請・許可
Ⅳ 羽村取水入口から付近から上貯水池までの経路
Ⅴ 軌道跡は保存されている
第60号 令和5年9月
大熊 鎮成
Ⅰ 粘土採取
村山上貯水池と下貯水池の中心工事は二つの堰堤(えんてい)を造ることであり、この堰堤の中心をなす重要な基礎部分は粘土に砂利を混ぜて、固めて築造されている。
大量の粘土を必要とされ、宅部(現多摩湖町)の近くから採れるので好都合であった。村山下貯水池の堰堤の粘土は、多摩湖町一丁目 2 番地の多摩湖歯科周辺一帯の丘陵地で、秋山建材所有の畑から大量に採取されている。地元の人は「粘土場」と呼んでいた。
宅部通りとはっけんの森通りを交差しているところから第四中学校に向かって40ⅿ先に道路より 1.8ⅿ下がっている多摩湖町一丁目 21 番地辺りも良質な粘土が採取された。現在道路より低地となっているのはその名残(なごり)である。粘土は「馬力」で下貯水池の堰堤まで運搬していた。
Ⅱ 軽便鉄道
資材置場を運ぶ軽便鉄道は大正 9 年(1920)6 月 20 日に開通式が行われ、東村山駅から村山上貯水
池の堰堤(えんてい)の下まで開通した。小さい煙突のある小型蒸気機関車が 2 台往復するようになった。単線だったが中間が複線になっていて機関車2台が交換した。1 台に12台トロッコを連結して砂利やセメントを運んだ。その場所が今の武蔵大和駅の南の街道(鷹の道)がカーブしている所の南よりであった。
この線が志木街道(都道 128号)と交わるところ(今の信号近く)に踏切があって機関車がくると踏
切番が白旗を持ち、鎖(くさり)を引いて通行を止めた。
この軌道は主に鷹の道で東村山駅から西へ東大和方向に進み、東村山浄水場の北側を通り、ほとんど平
地を東大和市清水の清水観音堂の北側を抜けて、ここから北に向かい仲山(なかやま)前で山を掘って隧道を作り取水塔付近に到達する。この隧道は東大和市高木の宮鍋氏が請負って掘ったので宮鍋隧道といわれた。
Ⅲ オロシの仕事
軽便鉄道のトロッコから荷を下ろす仕事を「オロシ」といった。オロシは屈強な若者でないと勤まらな
い重労働で専門にやった。12 台のトロッコに6人のオロシがついた。仕事は共同作業でセメント樽5
0貫(188 ㎏)を下して倉庫に 4 段に立てて積み上げる。次の車の交換まで下ろすのは大変だった。
袋入りになってから一袋が 13 貫(49 ㎏)余り約4本で樽1本になるので、2台分 50 袋を運ぶ。2
人組で一人が弾みをつけて相手の肩にのせる。オロシは急がないと次の車まで休む間がなくなるから大
変な労働だった。賃金は高く普通の倍だった。
Ⅳ タコつき
堰堤の基部の粘土やローラーの回れないところを固めるのは、主にタコつきであった。30 ㎤の土を切り取って検査してみるとタコがついた土の方がローラーで固めた土より重かった。そこで水に浸る基部は念入りにタコつきが行われていた。タコつきするのは「女おんな衆し 」が多く、なかに音頭取りの男がひとり、ふたり混じっていた
第59号 令和5年3月
大熊 鎮成
大正5 年(1916)1 月に村山貯水池一部起工案が東京市参事会に諮問され、同年6 月4 日東村山村回田(村山下貯水池内)において水道拡張工事に係わる地鎮祭が行われた。東京市長奥田義人、東京府知事井上友一、北多摩郡長鈴木種一、東村山村長当麻喜重、高木村外五ヶ村組合村長尾又高次郎など約300人が参列し小雨の中盛大に行われた。
Ⅰ 工事に至る経緯
Ⅱ 堰堤工事
村山上貯水池と下貯水池の二つの堰堤工事は近くの丘や高台から切り崩し、その土を突き固めて積み上げて堰を作るやり方である。古来の工法に加え粘土に砂利を混ぜてしっかりと突き固め、要所はコンクリートを使うという近代的な技術を駆使して築いた。土を主にして築くので「アース式ダム」と言われる。堰堤の底は幅が広く断面は傾斜の緩い三角形になる。
工事の順序は①敷鋤取(しきすきとり)②提心掘削 ③盛土 ④提心粘土壁 ⑤提心コンクリート壁 ⑥張石である
Ⅲ 導水路工事
羽村の取入口から村山上貯水池までの水路を羽村村山線と呼び、羽村から瑞穂町の南部(横田基地内)を経て武蔵村山市の西部から新青梅街道を斜め横断し、市立一中の北側を通り、市の中央を北東に、丘陵の下を抜けて上貯水池西側に通じている。この水路の上を工事中は軽便鉄道が砂利、砂を運んだ。丘陵は隧道(トンネル)を掘って下を水路に、その上を軌条が走っていた。上貯水池の取水塔下から下貯水池への導水路は取水塔下から深く隧道を掘り、堰堤南端下の湾入したところへ通じている。
第58号 令和4年9月
大熊 鎮成
東京市は明治25 年(1892)12 月、淀橋浄水場(現都庁・新宿中央公園・西新宿高層ビル)の建設にかかり、明治31 年(1898)11 月竣工し、東京市の約3分の2(127 万人)が水道水を使っていた。全市民に供給を可能にするため貯水池計画が実施された。その候補地として井の頭池、大久野村(現日の出町)、成木村(現青梅市)など調査した。土木工学の中島鋭治(えいじ)博士が提出した第一計画大久野村と第二計画村山村であった。内務省東京市区改正委員会で討議の末明治45 年(1912)村山貯水池が採用になった。地形が良好で工事費(村山地区2040 万円,大久野村2500 万円)が安く、「導入路の羽村・村山線および村山・境線」含め採用されることになった。
大正2年(1913)中島鋭治博士を工事顧問として測量が初められた。大正3年(1914)2月買収に円滑に作業が進めるため尾又高治郎(高木村外5ヶ村組合長)、当麻喜重(東村山村長)のほか村山地方の有志15 名に事務の嘱託を依頼した。
貯水水敷地用地買収価格 (大正2年の1円の価値は現在の4.000円相当、地方公務員の給与で算出)
貯水池敷地買収総面積 1,001.627坪(3.311,078 ㎡)(東京ドーム255戸分)
大正4年(1915)2月買収協議に着手したが、価格は不相当、値上げ要求、買収不応諾など一時は熾烈なる反対運動を起こした。東京市担当吏員は各戸を訪問し、買収価格の相当性、公益性であることを説き応諾することをお願いした。漸次成立して行った。
一方では別に地元住人の反対運動はかなり盛り上がり、反対集会には皆「むしろ旗」を押し立てて集まった。
大正3年(1914)1月には「移住地住民大会」という名をかかげた決議文を出している。また「承諾書調印拒絶書」を移住民約200名、地主約400名が会同し、買収価格は不当甚だしきもので当該用地を他に変更することを東京市長に上申した。ただ市当局吏員の買収工作の前に個々に切り崩され、一部を除いて反対運動も終わった。
市は大正8年(1919)11月土地建物処分規則により内務大臣に対し、杉本某6名に関する土地徴収並びに価格の決定申請を行ない、同年12月に東京市の申請通り決定した。いわゆる土地収用法により強制収容された。貯水池建設計画が提出されてから述べ8 年で土地買収は完了した。
第57号 令和4年3月
大熊 鎭成
多摩湖は東大和市に位置し、面積は市全体の4分の1に当る。明治45年(1912年)に決まった村山貯水池建設の頃の村の景観である。狭山地域は多摩と入問に跨がる丘陵地で、山の形は六本の指の掌を伏せた様だった。陽のあたる南斜面は村人の住んでいる村山郷と北斜面を宮寺郷と呼んだ。山中に二つの渓谷があり、北側の谷を山口郷、南側の谷を宅部郷と呼んだ。多摩湖地域は南側の谷の部分にあたる。東西に延びた二つの丘陵の間に開けた「谷戸」の村落であった。丘陵の中央を西から東へ宅部川が流れ、さらにそこに流れ込む沢がいくつもの谷を作っていた。二つの丘陵は多くの舌状の台地に分かれていた。
第56号 令和3年9月
大熊 鎭成
北川(上流を宅部川、下流を後川と言っていた)は多摩湖町、野口町、諏訪町へと流れ所沢市からの柳瀬川と合流する3.3 kmの準用河川である。流域には下宅部遺跡、令和2年(2020年)9月30日に国の重要文化財に指定された下宅部遺跡出土品、近くの国宝正福寺地蔵堂、国の重要文化財の徳蔵寺元弘の板碑、久米川古戦場跡と歴史の宝庫である。
東京市の水不足解消ため村山下貯水池(多摩湖)の建設は大正5年(1916年)に着工し、昭和2年に完成した。湖底となったその最も上流である芋窪村の村山上貯水池付近では石川、下流の下貯水池から東村山にかけての宅部郷(上宅部、下宅部)からは宅部川である。また狭山村字内堀あたりからゆるく北に折れて東村山村回田に至る谷地は水田が多く僅かに畑地を交えて民家162戸、溜池21泓、寺3軒、神社5社、堂4軒が点在していた。
昭和35年(1960年)頃までは村山下貯水池の完成後北川の源流に変わった十二段からの水や宅部池からの水、狭山丘陵南側通称宅部山(標高103m)の小渓流の水が流れ水量に恵まれた河川であった。両岸は灌木や草木で囲まれ1m程の淵と浅瀬が交互に並び子ども達の魚捕りと水遊びの恰好の場所であった。魚は豊富で鮒、鮠、鯉、鰻、鰌、ゲバチ、エビガニが生息していた。
昭和35年(1960年)頃以降からは宅地開発が進みトイレの浄化槽からの汚水、家庭の雑排水が大量に流れて水泡ができ白濁となった。30有余年経ったが、ようやく平成6年(1994年)頃より下水道が完備して徐々に浄化され鯉、鰌、ギンブナ、ザリガニが生息出来るようになった。桜並木通りに架かる水道橋の下に平成17年(2005年)に「蛍火の湧き水」を設置して青緑色の鳩のオブジェから湧き水を流す予定であったが、水量がなく清水が出ていないのは残念である。なお、ここ2~3年一羽の白鷺が忘れたかの様に飛来して魚や川虫を啄む姿は心の安らぎとなっている。
第55号 令和3年3月
大熊 鎮成
昭和19年(1944年)2月29日、多摩湖町1丁目と2丁目の境である水道々路(東側と西側の両側は一面の田圃で、現在の桜並木通り)200mの場所での大火であった。これは東村山市史にも多摩湖町の歩みにも載っていない、町の人も余り知らない大事故であった。
既に日本は太平洋戦争の敗北を色濃くしていた時で、村山下貯水池(現在の多摩湖)の堰堤が米軍の空爆で破壊されない様、大規模な石積工事等を行った労務者の15軒の宿泊所があった。当時は炬燵で炭や練炭で暖をとっていた。独身の男性が蒲団を掛けたまま外出した為、蒲団に燃え移ってしまった。
折しも北風の吹き荒ぶ強風で水道々路の両側に建っていた15軒の木造建物の宿泊所は、瞬く間に火のトンネルとなった。火の勢いは止まらず山を越えて廻田緑道の廻田まで火の粉が飛んでいった。 水道々路沿いの民家4軒が全焼した。この間火の見櫓からの半鐘のすりばち音は止まらなかった。
1丁目の浅見け江子さんの旧宅は燃え易い麦藁屋根の木造建物と北側に風除けに垂れ下げていた稲の束に燃え移り全焼してしまった。 祖父と父は山に落葉拾いに出ており、強靭な母はリュウマチで床に臥していたが、米蔵の米と嫁入り道具の着物を出すよう叫んで、食べることだけは不自由しなかった。
2丁目の浅見勇さん(83歳)は化成小学校回田分校(現在の回田小学校)2年の時担任の岩田先生が普段通らない赤坂道を10人程の生徒に付き添って、鎮火するまで近くで待機して家まで送ってくれた。赤坂道まで火の熱風が届いていた。約90世帯の住民は“おおやま(=腹が煮え返るくらい)悔しい宿泊所の・・・”と怒りをあらわにしたという。
第54号 令和2年9月
大熊 鎮成
この観音堂と菩薩は多摩湖町1-15-27に所在する。同町1丁目の浅見け江子等5代に渡って祀っているもので、昭和19年(1944年)2月29日の宅部の大火で母屋と米蔵(現在の東たいてん保育園)が全焼し現在地に移転した。幸い馬頭観音堂と地蔵菩薩は免れた。
第四中学校の宅部通りを西方向に向かい、最初の信号を左折すると変則の十字路(東たいてん保育園の北側)がありその角地に位置する。間口4.0m、奥行3.6mの三方が杉の垣根に囲まれた、高さ40cmの馬頭観音堂(施主浅見武右衛門明治27年甲午<1894年>)と44cmの地蔵菩薩(浅見孫次郎大正9年<1920年>12月建立)が鎮座している。いつも四季折々の生花と千羽鶴5本が飾られ、塵一つなく綺麗に清掃されている。
かつて宅部地区(現多摩湖町)は武蔵野の雑木林で櫟(薪炭用では最も上等)と楢が生い茂つていた里山であった。江戸時代の末期(1830年頃)以前から浅見家では炭焼き、?作、稲作で生計をたてていた。櫟の上等な炭を売る為、炭俵を東京に運ぶには唯一馬車が運搬の手段だった。高祖父の浅見武右衛門(天保13年<1842年>生れ)が52歳の頃、炭俵を東京に運ぶ途中、馬が転んで足を骨折してしまった。殺処分をせざるを得ず、明治27年甲午(1894年)にその供養として建てた。
浅見さんは毎日欠かさず線香を手向け、 近所の人も毎日線香を上げて、大病を患つても治ってしまうと言っていた。また狭山市(東村山市野口町に住んでいた)の高齢の女性は月1回参拝に来ている。65年前頃、年少の弟が病魔に苦しんでいた時、観音堂と地蔵菩薩をお参りして完治したことが忘れられないと言う。 地蔵菩薩を見ると何時も微笑んでくれている ことが何とも言えないと。最近では犬の散歩をしていた女性が携帯電話を落としてしまい途方に暮れていたが、 歩いた跡を戻ると観音堂の前にあったと言う。
*江戸時代(1603 年~1867年)以降国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として主に使われていた。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)に馬頭観音が多く建てられ、馬の無病息災の守り神であり、動物の供養塔として祀られたものである。
第52号 令和元年9月
大熊 鎮成
この庚申塚は多摩湖町2-7-3に所在する。南北に走る赤坂道と東西に走る宅部通りのT字に交差する角地にある。滑り易い赤土(鉄分を多く含んだ土のため赤い)の坂であることから赤坂道と呼んだ。「赤坂道」は中世《12世紀(源氏平氏の時代)~16世紀(職田信長・豊臣秀吉の時代)》からの古い道で路傍には多くの石造物があった。
この庚申塚は多摩湖町2-7-3に所在する。南北に走る赤坂道と東西に走る宅部通りのT字に交差する角地にある。滑り易い赤土(鉄分を多く含んだ土のため赤い)の坂であることから赤坂道と呼んだ。「赤坂道」は中世《12世紀(源氏平氏の時代)~16世紀(職田信長・豊臣秀吉の時代)》からの古い道で路傍には多くの石造物があった。
庚申塔は右面に「山口くわんおん(観音)道」と刻まれ道標も兼ねていた。隣には「板東西国百ヶ所」と刻まれた供養塔があり、「新道碑」「道路改修記念碑」も立ち並んでいる。また、この塔から北方60m先の北川(旧宅部川)の日向橋のたもとに「馬頭観音」「石橋供養塔」「光明真言供養塔」が建っている。
やや風化しているが庚申塔に刻まれたところをみると、明年4年(1767年) 《10代将軍徳川家治・商業の発達と町人の台頭の時代》宅部地区(現多摩湖町)14人によって建てられ、高さ88cm、笠付角柱形式の塔身に「青面金剛像」彫られている。下部には三猿があり石で彫った完全に完成した庚申塔である。この6基とともに往時の宅部地区の人々の信仰と交通事情を物語る石造文化財である。
昭和62年10月1日「市有形民俗文化財」に指定
*庚申塔は中国より伝承した道教に由来する。庚申信仰に基づいて建てられた石塔である。庚申講(庚申待ち)を3年18回記念に建立されることが多い。庚申の夜は夜通し眠らないで天帝(天に居て万物を支配する神)や猿田彦、青面金剛を祀り物語をしたり、宴会をしたリして夜を過ごした。
*庚申講(庚申待ち)とは人間の体内にいるという、三尺虫という虫が 庚申の夜寝ている間に天帝に人間の悪事を報告しに行くとされていることから、防ぐために夜通し守っていた。
第51号 平成31年3月
大熊 鎮成
狭山公園は多摩湖町二・三丁目、東大和四丁目に所在する。この公園は東京市の人口増加に対応した水源確保のため大正5年(1916年)~昭和2年(1927年)の10年有余かけて建設された村山貯水池の堰堤の東側にある。
豊かな樹林に解放感のある広場や宅部池を擁した丘陵地公園で、桜・紅葉・松・楓など四季折々の景色を楽しませてくれる。雄大な多摩湖の景観が楽しめることから、東村山町回田字宅部(現多摩湖町)の住民の憩いの場所であリ、長く東京近郊の景勝地として親しまれている。 昭和35年~昭和43年ごろまでは地元の青年団や婦人会が中心となって、8月に正門近くで櫓を建て盆踊リ大会を行い大変な賑わいだった。
開園は昭和12年(1937年)4月29日で、平成29年~同30年にかけて「sayama park 80th anniversary」を行った。面積は234,915.33平方メートル(東京ドーム5個分)と広大な公園である。
多摩湖堰堤の大地震の耐震工事のため平成15年(2003年)6月に「村山下貯水池築堤改修工事」のため公園を閉鎖し、平成21年(2009年)3月に改修工事が完了し、公園を開園した。その結果狭山公園の景観は変わった。改修後の平成25年4月~同26年3月の利用者動向によると年間約50万人が訪れたという。
今は湖底となっている旧住民が、村山下貯水池建設に協力する移転の条件として、東京市水道局への就職や一代限りの公園内に簡易建物の土産店・飲食店の出店が認められ7店舗あった。今は1店舗のみで桜の季節に営業している。
第50号 平成30年9月
大熊 鎮成
西武園住宅地の南東方向の道路脇に「瓦塔出土地」の石碑が建っている。(多摩湖町4-19-1付近)
出土した互塔は昭和9年3月に浅見家の土地の松林を開墾した際発見された。その後平成8年8月から同15年3月に下宅部遺跡の発掘調査を行ったがこの互塔の屋根の一部の破片が発見され、その偶然性に驚いた人は多かった。今は五重の互塔は上野の東京国立博物館に収蔵展示されている。
当時狭山丘陵の南面、通称「宅部山(標高103m) のなだらかに傾斜した中腹を開墾した際、沢山の瓦の様なものが発見され、これを復元すると「高さ1.93m」の五重の瓦塔ができた。
また、奈良国立博物にも「静岡県浜松市北区三ヶ日町宇志」から「高さ2.027m」の復元した五重の瓦塔が 収蔵展示されている。完全に近い形を残しているものはこの多摩湖町と三ヶ日町の二瓦塔のみである。
瓦塔は奈良時代(710年~794年)から平安時代(794年~1192年)に多く造られており、宮城県から熊本県までほほ日本全域に及び120数例が知られている。群馬県30例、埼玉県22例なと関東地方で過半数を超えている。この瓦塔は須恵質ものである。
瓦塔がどのような目的で造られた定説はないが、(1)塔婆信仰説、(2)墳墓信仰説、(3)衆縁勧募説(寺院建立の予定地に浄財をあつめた)などが考えられる。市内にある瓦塔の存在として、武蔵国多摩郡内の仏に崇拝している人によるものなのか、又は古代の官道「東山道」や悲田処があったと思われる。不詳ではあるが、古代史の上から見て重要性の地域であったと考えられる。
なお、悲伝処とは平安時代初期の天長10年(833年)武蔵国多摩郡と入間郡の境に設けられたもので、飢えや病気に苦しむ旅人の一時救護所や宿泊としての役割を果たした。
昭和51年3月31日史跡文化財指定 平成24年4月1日市旧跡に指定
第49号 平成30年3月
大熊 鎮成
多摩湖緑地観察広場の一画で自然に出来た湧水池がある。(多摩湖町2丁目20番地所在)ここは回田小学校の北側の崖下20m地点から北側80mに位置し、多摩湖町自治会集会所より120m南側にある。
北側、東側、西側の三方の崖に囲まれた周囲約80mのひょうたん型の湧水池である。かつて北川(旧宅部川)に沿って一面田んぼであったが、この水はここから引いていた。用水路はそのまま残っている。崖上の回田小学校の東側は市内でも一番高い標高で103mある。
この3方の崖は山里で橅・楢・櫟・楓など生茂っていた。冬になると落葉や枝を農家の方が燃料や堆肥に利用していた。この落葉は何十年も経つて落葉についている幼虫の 卵子とともに腐食し、土となり地下水に浸透し、プランクトンを沢山含んだ湧水となり、鮒・鯉・メダカ・鰌・鰻・ザリガニなど棲息し、夏には源氏ボタルが舞っていた。蝮がいるので小学校ではこの辺の道は通らないよう教えていたという。今や池の周辺は葦や茅が茂つている。
昭和38年頃より徐々に宅地開発がすすみ、山里の木々も年々伐採され、落葉も減少し、湧水の量も少なくなり、湧水の勢いはなくなってしまった。
現在は平成8年4月に東村山市の緑地保護地域766平方メートル(232坪)を指定し「せせらぎの里」としても保護されている。市内でも自然に出来た湧水池は数少なく貴重な場所となっている。
第48号 平成29年9月
大熊 鎮成
多摩湖町の北部に位置する西武園邸宅地の一画(多摩湖町4丁目27番地)に「観音堂共同墓地」がある。かつては西武グループが経営するゴルフのショートコースに隣接していた。
この墓地と回田小学校の南側道路面とは東村山市内で一番高い標高で海抜約103メ ートル以上ある。(市役所は海抜77メ ートル)。 住宅地の道路から30度以上の勾配を一挙に35メートル程で登りつく。東南方向に目を向けると練馬区や杉並区のビルやマンション群は眼下に見下ろし、台東区、墨田区、豊島区、新宿区の高層ビルが一望できる絶好の景観である。池袋のサンシャイン、東京スカイツリー、新宿のNTTビル、住友ビル、三井ビル、野村ビル、損保ジャバンビルなどの高層ビル群と東京タワーが横一線に並んで見える。
さらに驚くことに7月の隅田川の花火が見えると近所の方が教えてくれた。確かに双眼鏡を覗くと隅田川の川面が光って見える。西方向に目を向けると霊峰の富士山、大室山、蛭が岳、丹沢山、塔ノ岳、大山、丹沢山地の山々がコバルト色に染まって連なっている。一度見に行くことも楽しみなところだ。
なお、地理的には東村山市は東京都北西部、荒川から多摩川にかけて広がる洪積層、武蔵野台地のほぼ中心にある。北西部分にはこの武蔵野台地にポッカリと島のように浮かんだ狭山丘陵を含んでおり、荒川方向(北東)にゆるやかに下がっている。
第47号 平成29年3月
大熊 鎮成
北部地域包括支援センタが主催する「まち・ひと認知症マッチングプロジェクト」(社会福祉協議会と日本社会事業大学の協力)で、多摩湖町を知るために「多摩ちゃん来い来い みんな集まれ!」と題して地域の方と一緒にまち歩きをしました。今回は、その報告第2弾です。
今回のまち歩きでは、4日間で1丁目から4丁目を順番に歩きました。町内全てを回ることは出来ませんでしたが、普段の生活では気付かないこと、新しい発見などがありました。
まち歩きが終わった後、参加者の皆さんと意見交換をしました。
多摩湖町の強み(良いところ)
多摩湖町の弱み
住宅街、散歩道、公園など、いろいろ見て歩きました。参加してくださった方からは「久しぶりに良い所だな、と再認識しました」といった感想も聞かれました。 普段よりちょっと視点を変えてまちを歩いて見ると、いろいろな気づきがあります。皆さんも多摩湖町を歩いて、お薦めポイントを見つけてみませんか。
第46号 平成28年9月
大熊 鎮
昭和25年5月から26年3月までは全国的にも珍しい宅部(現多摩湖町)に3つの駅があった。そのうち現在もその形跡が感じられる狭山公園正門前より東側に100m以内に2つの駅があった。駅名も何回か変わった。
一つ目の駅は昭和11年12月多摩湖鉄道の多摩湖線の村山貯水池駅として開業、同16年4月戦局激化に伴い狭山公園前駅、同26年9月多摩湖駅、この駅を同36年9月北方に0.4km延長、同54年3月に西武遊園地駅と改称された。
この駅は狭山公園管理事務所から5m東側で駅舎と改札口があり、そこから5m位土手に沿つて階段を登るとホームに出る。この駅は昭和36年9月、0.4km延長した為今はないが、その面影を残している。
大岡昇平の恋愛、心理小説武蔵野夫人に「電車が『狭山公園』と言われる終点で止まると前方50尺ばかり高く海鼠色の堰堤が塞いでいるのが見えた・・・」と書かれている。
二つ目の駅は「やけべうどん」の東側(多摩湖町3丁目3番地)に昭和5年4月開業の村山貯水池前駅があった。同16年3月に狭山公園駅、同23年4月に村山貯水池駅、同26年3月に西武園駅に統合された。線路は「くの字型」に北山小体育館の北側の近くまで延びて東村山駅に向かう。
三つ目の駅は北山小体育館の北側の近くに昭和25年5月に野口信号所を設置し、支線を分岐して村山競輪場(現西武園競輪場)の利用客の臨時駅西武園を設けた。昭和25年5月から 同26年3月まで村山貯水池駅と西武園駅は同時に営業していた。同26年3月に野口信号所から村山貯水池駅までの線路は廃止となった。この線路跡地は民家が立ち並び、線路の桜木の柵が一部そのまま残っておリ、その形跡を残している。
第45号 平成28年3月
大熊 鎮
多摩湖町の中央、桜並木のある長さ900m・幅15mの道は、導水管の敷かれた水道道路です。
この道路は1932(昭和7)年に完成し、狭山湖から現在の西武遊園地内を抜け、桜並木、金山神社付近を通り、東村山浄水場に至ります。60年ほど前は田畑の一本道でした。ところどころに空気抜き(?)のマンホールがあり、「ドオドオ」と水が流れる音が聞け、子供心に何か役目を持った道であることを印象付けました。歳月は流れ、付近の田畑は宅地化され次第に家々ができてきました。それまで草ぼうぼうだったこの道路は整備され、桜が植えられました。1976(昭和51)年「夢の遊歩道」と名付けられたこの道は、「廻田緑道」からつながる緑豊かな道路になりました。
今や春には3自治会主催の「桜まつり」、夏には保健推進員会の「ラジオ体操」などが行われ、地域交流の会場となっています。また、市民や付近の保育園児の散歩道であり、蝉のなく頃には蝉取りの子どもたちの姿が見られます。
水を運ぶための道は、現在は地域のオアシスとなっています。
第44号 平成27年9月
(MK)
北部地域包括支援センター主催の「まち・ひと・認知症マッチングプロジェクト」(社会福祉協議会と日本社会事業大学協力)で、まず多摩湖町を知ろうと「多摩ちゃん来い来い みんな集まれ!」と題して地域住民の方と日本社会事業大学の学生が多摩湖町を歩きました。
今まで2回(平成25年6月、26年6月)のまち歩きと2回の報告会(平成25年11月、26年7月)を実施しました。
初めて多摩湖町に触れた学生からは、「緑や自然が多い」、「人があまり歩いていない」、「坂が多い」といった感想が出ました。
地域資源を活用して交流を盛んにするには?多摩湖町に住んでいて良かったと思えるようにするには?については、「坂道にお絵かき」、「公園の活用」、「流しそうめん大会」、「子どもを育てたいと思う町に」などの提案がありました。
一方、地域の方からは、「緑が多くあって、素晴らしい多摩湖町だと思う」、「学生さんのアイデアはびつくりしたが、楽しそう」、「若い方の意見は必要。最終的には地域に住んでいる私達がしっかりと考えることが大事なのかな」、「どう町を変えていったら良いか、皆さんと話しをしていかないと」などの意見があり、皆さんと様々な視点で多摩湖町について考えることができました。
今後も、意見交換を行う地域懇談会の開催や、まち歩きを予定しています。ぜひご参加ください。多摩湖町のみなさんと一緒にまちづくりについて考えていきたいと思っています。
第43号 平成27年3月
四年半前に拡幅して開通した多摩湖町一丁目から四丁目の南北に延びる道路に架かる北川(旧後川)に宅部遺跡橋がある。その橋から100メートル上流に大さな石を積み重ねて、仮設の堰き止めを作り、沢山の鯉が悠々と泳いでいる。金色、青色、白色、黒色、赤と青や赤と白の斑が50センチに及ぶ大きいものまでその泳ぐ様は思わず足を止めてしまうほどだ。ここ2~3年は親子連れ、障がい者、高齢者の方が餌を与えてくれ、楽しみに来る人が多い。
かつてはせせらざの川もヘドロが堆積、メタンガスが発生し、悪臭が 漂い、葦や雑草が繁茂し、北川は死滅してしまった。20年前からは下水道も完備して、この川も大分浄化されたが、さらに鯉が汚れた微生物を食べてくれ、清々しい、されいな川になった。
それは、昔のような清流に戻したいと北川の近くに住む、四丁目の池田さんら三人が集まって、仮設の堰さ止めを行い、鯉を飼うことにした。鯉は池田さんらの心意気に感動し、小平市の人が放流に協力してくれた。夏は涼しく、クーラーもいらない、蚊もいない、臭いもない、人が楽しみに来てくれ、快適な日々を過ごしている。
池田さんは「これからも地域の人の協力や手助けが得られれば、現在のような仮設の堰さ止めを順次100メートル位を目安に3~4ヶ所を上流 に作ってみたい」という。「鯉の沢山棲む北川にして多摩湖町のチョットした観光スポットになり、町の活性化になればいいのだが」と笑顔で熱く語ってくれた。
“ボランティア活動による、子供達・高齢者・障がい者が喜んでくれる、地域の活性化につながり、地域の絆を深めていく、環境に優しい取り組み”これが「地域福祉の原点」かもしれない。
第42号 平成26年8月
(S0)